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2014年05月23日(金)

コンペの美学

建築のコンペはスキャンダラスな話が付きまとうものです。「下種の勘繰り」とか「負け犬の遠吠え」とかで片付けられない証拠のある「事実」が歴史的にも沢山あります。しかし、その話は別の機会にしますが、今ここではそのことが主題ではなく、むしろ「コンペの美学」について話したいのです。建築家は、実力がいくらあっても仕事が来なければどうしようもない。仕事に繋がる人脈など持っている人は稀だから、ひたすら何かのチャンスを待つしかない。そこでコンペがあると闘争心むき出しで参加し競争します。本能と言ってもいいかも知れない。失礼ですが、競馬馬が隣の馬より一歩でも先に出ようとする、あの本能と同じかもしれない。だから、よほどルールをしっかり定めて、「隣の馬」に負けても了承できるやり方で、納得のいく結果でなければ、たまったものではない。しかし以前から、よく施主に審査させる住宅コンペがあると聞きます。たしかに施主は発注者ですから、その人が満足しないと話になりません。選ぶ権利はその人が一番というのでしょう。しかし、私はなんか違和感をおぼえるのです。それは私の言う「コンペ」とは違います。私の言う「コンペ」、歴史的にも「コンペ」と言われるコンペは、最も優れた案を選ぶのであって、施主が気に入る案を選ぶのではありません。施主は、審査員が「最も優秀」と言ったものを、受け入れるのが前提です。審査員と施主はそういう関係でなければなりません。だから応募する建築家は、審査員を認め、「優秀」と判断されることを受け入れて、ひとより優秀な案を作ろうと競うのです。施主が気に入る案をひとと競うこととは、ちょっと違うのではないか。私の言う「コンペ」で競うのは、競馬馬が隣より少しでも先に出る、つまり「早く走る」という一種の美学のある習性なのですが、施主を審査員として行うコンペは、カブトムシを蜜で引き寄せながら競わせる、なんかそんな競技に似ているようで、建築家はカブトムシではない!と叫びたくなります。施主は建築家が蜜に飢えていることを知っていて、それを利用している、というのが施主が選ぶコンペです。それに応じるカブトムシに美学はありません。


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