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2016年06月10日(金)

「田中角栄」の小説

 石原慎太郎が田中角栄のことを小説にして、売れているようです。

 私は、今書かない方が良かった、否、書くべきではなかったと思っています。

私の臍はどうも真ん中に付いていないようでお許しいただきたいのですが、皆さんはどう思われているでしょうか?

 そもそも何のために書いたのか? 読み終わって「だからどうだと言うのですか?」という疑問が湧きませんか?「で、これを書いた目的は?何が言いたいのですか」と聞きたいのです。

小説家が小説を書くのは本分で、だから書いたというなら、まだこの題材を小説にするのは早過ぎませんか。まだ「ナマ」なことではないですか。 つまり、金権政治や金にまみれて汚いことはあったけど、そしてそれを自分は糾弾してきたけど、あれは間違っていた。それより田中角栄は凄い人で、あんなことするんじゃあなかった、反省しているというなら、そうはっきり告白すべきです。「金権政治も場合によっては許される」と。そこをはっきりせずに「田中角栄はすごい人だった」と言われても「あ、そう。わかっていますよ、国土を変えたんだから」と言いたいです。

社会なんて、人間なんて、政治なんて、そんなに白黒はっきり分けられるものではないというテーマなら、こんな古いテーはありません。夏目漱石だって悩んでいます。

秀吉や家康は凄かった、と言うなら誰も「自分の意のままに人を切腹させ、独裁者だから悪い奴だった」などとは言いません。わざわざ田中角栄を今小説の題材にしなくても良かったと思います。

蛇足ですが、似たようなことを考えたことがあります。阪神淡路大地震の直後にベニスの建築ビエンナーレがありました。その時「日本館」は、ある建築家が震災の後の廃材を館内に一杯に敷き詰めて廃墟となった惨状を表現し、その中に置時計だけを置いて、その時計だけが静寂の中でチクタクと時を刻んでいる、という「展示」をしたそうです。特別な賞を取ったそうです。

私は「で、何が言いたいの?それってただのアートでしょ?」と思いました。起こったばかりの地震からネタを取っただけではないか?と思いました。まさかそれを「警告」にしようと思ったわけではないでしょうし、建築家だから、もっとしっかり家を作らないとこんなになっちゃうよ、という呼びかけであるはずもない。主張のわからない展示ではないでしょうか?

まだ起こったばかりの地震の片付いていない現場から煙の出ているような木片を拾って来れば、そりゃあ生々しいから、効果はありますよ。

田中角栄の小説の広告の横で甘利さんが札束を内ポケットに入れたという生々しい現実が報道されている。そういう状況設定とどうしても重なって見えるのですがねえ。


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