ホーム »  コラム  »  石原慎太郎氏と映画監督

2022年02月05日(土)

石原慎太郎氏と映画監督

 石原慎太郎さんの衝撃は挙げればキリがありませんが、私にとって最も衝撃だったのは、映画監督をやったことです。

 かといって、何の映画の監督をやった?と聞かれると答えられないのですが、「太陽の季節」が大当たりしましたが、監督は別の人です。

 私の記憶では、当時の映画は、大御所の監督がいて、その下に助監督や助手がいて、彼らは何年も下積みで鍛えられて、やがてメガホンをとることができる。

 それを何にも経験したことがないのに、「太陽の季節」が当たっただけで、映画の世界に入ってきて、それまでに築かれていた世界をぶっ壊したから、「大きな顔をするな!」と「下積み」たちは怒ったのです。

 私の記憶違いで、その直後の「狂った果実」や「青木ヶ原」「嵐を呼ぶ男」実はどれも監督は別の人ですが、監督面(カントクヅラ)をしていたので、監督になったと思ったのです。 

 しかし実は「原作・脚本・制作総指揮=石原慎太郎」と記録が残っています。

 すなわち、それまでの「映画監督」が映画を作るという常識、勿論経営の方は会社のプロヂューサーですが、映画そのものの内容は監督が作る。だから、そうやすやすと監督にはなれないで、丁稚奉公みたいな下積みを、ほとんど一生をかけて経験し、やっと大御所になれる、という映画のシステムをぶっ壊してしまったのです。

 一緒に登場した裕次郎さんもそうです。

 普通は、俳優養成所学校に通って、飯代も節約して演技の訓練に励む、そして奇跡的に引き抜かれるのを夢見て、訓練に励む。

 しかし裕次郎さんは素人なのに最初の一本でスター。歌手でもないのに、歌でもヒット。

歌う前にビールでうがいすると、声がよく出るんだ、と豪語して、「下積み」の連中を呆れさせました。

 その兄弟が日活の撮影所を闊歩して、映画の「常識」をぶっ壊したのです。

 私はその時高校生で、映画監督になろうとしていました。しかしそういうシステムだから、いきなり監督に憧れずに、なぜか助監督に憧れていました。松山善三が良かった。

 時のスター、高峰秀子と結婚するほどカッコよかったのです。

 (お二人の晩年、ある飲み会でお目にかかりましたが、その話は後日。)

 で、当時の映画監督になる仕組みが石原慎太郎の出現によって、吹っ飛んでしまった。

 意見や考え方には賛成も反対もありましたが、たとえ共鳴しても、とても真似のできる存在ではなかった。

 それで、建築の道に切り替えたのです。

 お亡くなりになって、初めて知ったのですが、これだけは共通で、同じ考えでした。

 「死んだら、骨は海に撒いてくれ!」です。

でも、石原さんの近くに撒くのは止めてくれと家族に言っておきましょう。 合掌

 


ページの先頭に戻る