2020年04月30日(木)
仏像写真のシャッターチャンス
写真家・土門拳が脳出血で右半身不随になられて、再起を目指しておられるとき、懸命にリハビリをされた。それが、シャッターの押し方を訓練された、と記憶しています。
普通、歩き方とか箸の持ち方というならわかりますが、シャッターの押し方というのは、意外に思いました。
特に力の要る動きでもないし、仏像なんてじっと動かないものだし、どういうことかな?と思ったことを憶えています。
それが解けました。
数日前の「朝日新聞・美の履歴書645」で土門拳の写真が出ていました。
戦後、子供たちが下町の路上でチャンバラごっこに興じているときのワンカットです。
「実はあの右側の子は私です」と言いたいくらい、「近藤勇」に扮するガキの姿が決まっているのです。左足のツッパリが良い。上体の構えは、やったものしかわからない真剣さが伝わってくるのです。
相手の「鞍馬天狗」は一瞬宙に浮いています。その一瞬の 0.1秒もないその瞬間にシャッターは切られています。
いえ、シャッターを押す訓練は、その0.1秒のためだと言っているのではありません。
土門拳は脳出血後、さすがに大型カメラに転向されます。こういうスナップ写真はもう無理だったのでしょう。
シャッターを押す訓練はそのためではありません。仏像のためだと思います。
仏像は動かないからレリーズさえ押せれば写真は撮れるでしょうが、この「近藤勇と鞍馬天狗」の写真を見て、シャッターチャンスというものは、物理的な動きのためだけではないのではないかと思いました。画面になにか感じるものがある。
動かない仏像とじっと対峙していて、なにか「この瞬間」というものを仏像に感じるのでしょう。
それを感じた一瞬、シャッターを押すのでしょう。0.1秒の狂いもなく。