2020年10月10日(土)
竹山実さん逝く
竹山実さんがお亡くなりになったと、ネットニュースと武蔵美卒のIさんのメールで知りました。
早稲田の先輩です。
私が2年間竹中にいて、修士課程に戻ったら、6年間?広瀬鎌二の事務所に勤めて戻ってきたオチエさんという女性と安東研で一緒になりました。
ある時、オチエさんが「面白い人がいるから紹介してあげる」と、やはり出戻りの木島安史君と私を連れて、深夜押し掛けたのが竹山実さんの部屋でした。
オチエさんと竹山さんは同級生らしく、どこかヨーロッパの事務所に勤めて、早稲田に戻ってきた方でした。
当時の早稲田は、そういう「出戻り」や「流浪の民」という、勤め先も特に求めず、研究室に居場所を勝手に決めて、ぶらぶらしている人が、何人もいました。
そのころは、教授たちは研究室で設計をしていました。OBのベテランを1人チーフとして置いていました。あとは「出戻り」や「流浪の民」が好きな教授の研究室を手伝って、設計事務所のような体裁は整っていました。
設計の教授は5人で、それぞれ研究室で設計をしています。それに構造や設備とも学内で組んでいました。
実に活気のある大学でした。(ちなみにそれが禁止になったのは「学園紛争」の時でした。)
竹山実さんは、私が戻る数年前に武基雄教授の研究室に戻ってきました。
武研究室では、ちょうど「長崎水族館」の設計がほとんど終わるころだったそうです。
ところが、竹山実さんは、その案を見て「ダメだ、こんなんじゃあ!」と言ったかどうか知りませんが、まったくひっくり返して、設計をやり替えたというのです。
私が大学に戻ってきた時、その「暴挙」が伝説になって残っていました。
さっそく「長崎水族館」を見に行きましたが、「コルビュジエよりコルビュジエらしいなあ」と感じたことを思い出します。
「長崎水族館」は学会賞も取り、文字通り武基雄先生の代表作と言われる傑作となりました。
中には、それなら竹山実の作品と言うべきじゃあないの?という人がいるかもしれませんが、そうではありません。
建築の設計は、ボス(武基雄)が自ら案を出す場合もあれば、スタッフから出たものを救い上げる場合も、そんなの関係ありません。すっかり終わっている設計を「こんなのダメだ」と竹山さんが言ったことに耳を傾ける度量と、竹山さんが出した案を救い上げる優れた眼を、武基雄という建築家は持っていたのです。
深夜にも関わらず、ベッドから起きてきて、相手をしてくれたことを思い出します。
ベッドはコンクリートブロックを2列並べて12ミリのベニヤを置いて、その上に北欧調の洒落た柄の毛布を掛けたものでした。
竹山さんは何をしてもカッコいい方でした。ご冥福を祈ります。